エンタメ系Pのネタ帳

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コロナウィルスがもたらした私たちの距離感覚の撹乱

私は大学院時代にメディアコミュニケーション論の研究をしていました。主に、マーシャルマクルーハン時代のグローバルビレッジ(※世界のグローバル化によって、地球全体がひとつの村のように緊密な関係をもつようになったこと)という概念を、デジタルコミュニケーション時代にあてはめて、人々のコミュニケーションにどのような変化をもたらすのか、というようなことが趣旨でした。今まさに世界中の人々の生活を一変させてしまったコロナウィルスのパンデミックによって、それが新たなチャプターに突入すべき事態にあるように思え、この記事を書くことにしました。

 

メディアの発展によって、言語やその他のコミュニケーションを含めた「情報」は、時間や物理的距離を跨ぐものになり、マスメディアによってそれが世の中を動かす力をもち、それがさらにインターネットとIT技術によって加速され、誰にとってもその情報を受信だけでなく、発信、拡散できるのが当たり前になりました。また、航空技術の発達で、そもそもの物理的な距離でさえも跨ぎ、今、人々の距離の感覚は大きく変わってきています。今日はこの2つ ー デジタルコミュニケーションの進化と、モビリティ技術の進化によって大きく影響を受けている「人々の距離の感覚」に、コロナウィルスパンデミックの世界的自主隔離がもたらす撹乱について書きたいと思います。

 

「世界が小さくなった。」私はこれまで生きてきた37年間の中で、幾度となくこれを体感してきました。地球の裏側にいる人々とも瞬時につながる環境。一昔前までは、電子メールのみ、または国際電話があり高額な費用が掛かっていたものの、今ではそんなことも一切気にせず、スマホのコミュニケーションアプリで、24時間どこにいても手軽に、そう、昔で言う市内局番にかけるよりも安く、世界中の人々とつながることができます。

 

SNSの爆発的な普及により、人々はもはや、物理的なコミュニティと同じくらいか、それ以上に、オンラインでのコミュニティに属している数が多いのではないでしょうか。それはつまり、地理的な共通点ではないコミュニティ。オープンなコミュニティやクローズドなコミュニティまで、目的や話題に応じて複数に属していることが多いかと思います(最近ではオンラインサロンも盛んですね)。共通の趣味や、共通の志、友達の輪などの発展がオンライン上で、デジタル的に人と人とのかかわりを形成する世の中です。同じマンションの隣人よりも、世界のどこかの顔も見たことがない人と精神的に深くかかわっているような、そんな距離感の世界ができたということかもしれません。どこにいてもつながってしまう、追いかけられてしまうような逃げ場のない世界でもあります。スマホの充電切れ、電波の届かない場所、もしくは自ら電源を落とすなど、突如として断絶される(または切断する)ことはできますが、そうしたらそうしたで今度は、突然見たこともないような砂漠に放り込まれたような、心許ない感覚を覚えるのではないでしょうか。

 

一方で、もしもこのコロナ時代に、デジタルメディアがなかったらどうでしょうか?

強制的に人々は「今ここ」にいるでしかなく、自分の世界は家の中や近所に急激に狭まることでしょう。人との接触が禁じられている中、少しでもコミュニケーションがとれるすぐ近くにいる人の重要性が高まり、その人々との情報交換が盛んになり、同時に、共通点などを探して少しでも落ち着きたいと思うのではないかと想像します。全国規模の物流や流通が滞り、多くの生活必需品が手に入らなくなるでしょう。社会に多大な不安とストレスが蔓延してしまうことだと思います。そう考えると、家に巣ごもりしていてもこれだけ普通に(最低限)生活していられること、メディアを通じて世界を見ること、情報を取りに行くこと、人とコミュニケーションをとることができるのは、精神的自由を感じますし、先進技術の恩恵を享受しているということは再認識されます(※反面、これによって生じている社会の歪みもどこかで論じるべきではあるが)。人々の意志や行動がデジタルメディアに乗り、空間を超え経済活動が続いていることで、この程度の混乱で済んでいると言えるでしょう。

 

コロナウィルスによって、日常のコミュニケーションのデジタル化はより一層に加速することとなりました。世界中の会社はリモートワーク環境を強いられ、今までそのような環境を拒絶し、頑なに古き良きアナログ的価値観を守ろうとしていた層ですら、順応せざるを得ない時代がきました。デジタル化のボトムアップという側面も大きかったと思います。オンライン会議、ペーパーレス化、電子申請、、、などのインフラ整備が必要不可欠に。しかしながら一方で、いざ本腰を入れて社会全体がそのような試行錯誤をしてみると、それまで見えていなかった色々なことが分かってきました。全部が全部オンラインに置き換えられるかというと、そうでもなく、むしろ無理やりすべてをオンラインで片づけようとするとストレスになり、かえってそれが人々のコロナ疲れを招いている原因になっているともいえるでしょう。今の技術、通信環境では、音声や映像が乱れることもあり、多少のタイムラグもあり、お互いの間合いみたいなものが見えずに、発言のタイミングが被って上手く噛みわないことも多いです。それによって、仕事において言えば、ビジネス相手との関係構築の初期段階や、利害が一致していない段階での交渉など、オンラインでは困難ですし、かえって事を複雑にしてしまう恐れもあります。また、エンタメの世界で言うと、ライブコンサートやイベントなども、生配信やオンライン開催ということを模索するものの、やはり逆に圧倒的にリアルの臨場感にはかなわないことを思い知らされています。むしろ今ライブエンタメ業界が向かおうとしている方向性でいうと、リアルイベントのメタファーではなく、オンライン開催はオンライン開催でしかできないこと、その楽しみ方を追求すべき、という流れになっています。コロナウィルスがきっかけで、デジタルコミュニケーションの意味を見直し、オンラインに代えられるものと、そうでないものが明確になったと考えます。やはりそこには、時間とお金を投資してまで、距離という物理的な障壁を乗り越えるほどの、リアル&ライブならでは価値があるということが、再評価されたきっかけになったと思います。

 

それでは、物理的な移動、つまり人々のモビリティに関してはどうでしょう。コロナウィルスのパンデミックを抑えるための最大の動きといえるのは、国際便の運航を止めたことでしょう。全世界的にマイナス90%以上の減便と言われています。空港は飛ぶ予定のない飛行機で埋まり、勢い良く成長していたLCCも次々と財政破綻、大規模の航空会社も政府による財政再建だよりになっている状況です。こんな世の中をだれが想像できたでしょうか。これによって、それまで毎月2~3回ほど海外出張していた私の生活も大きく変えました。ただ、それ以上に変えたのは、私の距離の感覚でした。小さくなったと思っていた世界が、急に途方もなく大きく感じました。すべての仕事をオンライン会議やメールで進めざるを得なくなりましたが、前述のように新たなビジネス開拓やイベントの仕事などは困難で、結局全て止まってしまっています。世界中の国と国との間を自由に行き来できるのが当たり前になっていた私の世界観が崩れさり、そのせいで、私のビジネスも未だにいつ元に戻るのか目途が立たない状況です。

 

これは考えれば考えるほど興味深いものです。これまでは例えば、飛行機とバスを乗り継いでしか到着できない国内出張よりも、韓国・ソウル出張のほうが早く、安く、それによって圧倒的な精神的距離の近さがありました。極端なことを言うと、東京からわずか1300キロ先の北朝鮮に行くよりも、1万キロ以上離れているニューヨークに行くほうがはるかに近いという感覚です。それが、ひとたび世界的パンデミック感染症が人々の往来を閉ざし、すべての外国が北朝鮮と同じくらい「遠い国」になってしまったのです。もちろん、デジタルコミュニケーションは遮られていないので、実際は北朝鮮ほどではないですが、「世界が小さくなった」という距離感覚は、あくまでも「政治的、科学技術的、そして疫学的に安定」した状態においてのみ成立する、もろく危ういものであることを思い知らされたのでした。これはコロナが収束したとしても、またいつでも起こりうる断絶、そして現代人にとっての危機であることを認識しておかねばなりません。

 

おそらく、コロナウィルスに関しては、あと1年以内には、ワクチンや治療薬が開発され、一般に流通し、収束を向かうであろうと思います。そこで迎えるニューノーマルといわれている新しい世界が今、色々なところで語られています。その中でも私が確信しているのは、デジタル化はこのまま加速し続けつつも、オンラインとリアルの利点をそれぞれ明確にし最大化する社会です。元の活気を取り戻すグローバル化においても、それが把握された前提で二極化して進んでいくのではないかと思います。電話会議も、通信技術の革新で超低遅延の安定した接続が成され、VRやホログラムで平面から立体的に表現され、よりリアルに近しいオンライン打ち合わせが可能になることでしょう。それによって人々の感覚はますます場所の感覚が薄れていく、、という流れは、以前までは止まらないと考えていましたが、今回の世界的なコロナショックによって、必ずしもそうではないということを気づかされたと思います。技術が人間のコミュニケーションや人間の存在自体をメディアに乗せてバーチャルにグローバルにつなげつつも、同時にいつも「今ここ」にいる自分と隣人と向き合いながら進化していくしかないように思えます。